白血病になった社長※ - 患者として人生に向き合う

※2015年当時。2020年2月より現在のMIフォース株式会社 社長に就任

2012年の白血病発症後、社会復帰して5年。
その後も続く治療や新たな課題など患者の視点からありのままを伝えるレポートの第2弾。 レポート第1弾は こちら

第1回 再び書く「理由」

50歳にも満たない自分がいったいなぜ?がん家系でもないのに。
12年12月11日未明、千枚通しで胸を貫かれたような痛みで始まった私の病の正体は「フィラデルフィア(Ph)染色体陽性成人急性リンパ性白血病」。
急性リンパ性白血病(ALL)は小児に多い病気で、成人での発症は年間で10万人に1人程度です。
そんな稀な疾患に、罹ったのです。
想像を絶する闘病生活が始まりました。

本誌15年5月1日号から10月15日号にその記録を書きました。それから3年。
ACメディカル社長として、忙しい日々を過ごしていますが、医薬品業界に携わるものとして、またがんサバイバーとして、さまざまな問題があると強く感じ、改めて筆をとりました。
私の病である成人ALLの4人に1人にみられるPh染色体の発現は、年齢や初発時白血球数と併せ、重要な予後不良因子です。
「グリベックなどの分子標的薬の登場で、白血病の治療成績は格段によくなっているとはいえ、Ph陽性ALLは一旦寛解が得られても、5~9ヵ月の間に再発する可能性が極めて高く、依然として楽観視が許されない相手だったのです。

実際、このとき医師から提案されたのは、分子標的薬を加えた「寛解導入療法」で骨髄中の白血病細胞の割合を5%以下にまで減らし(=完全寛解)、次いでさらなる白血病細胞の減少と中枢神経系への浸潤を防ぐ「強化療法」を行ったうえで「造血幹細胞移植」を実施するという最強の治療計画でした。
13年1月4日に始まった寛解導入療法では、味覚障害や脱毛、軽度のイレウスに悩まされましたが、この先に待ち受ける治療の苦しさに比べれば、ほんの序章に過ぎませんでした。
このあと、シタラビン大量療法や抗がん剤の脊髄腔内投与などの強化療法を受け、「やれやれ、何とか乗り越えたぞ」と一息つけるかと思いきや、再び寛解導入療法のレジメンに戻って治療が繰り返されました。
グリベックから「スプリセル」に変更したあたりから胸水が溜まったり、サイトメガロウイルス(CMV)感染による網膜炎を発症して失明の危機に直面するなど、それまでの無理が祟ったかのように身体が悲鳴をあげ始めたのです。
その結果、移植が2ヵ月半延期になりました。
それでも、2ヵ月半の自宅療養を「体力回復期間」と前向きに捉え、1日3000~4000歩のウォーキングと規則正しい生活を心がけ、13年9月18日、移植のための再入院を果たします。

移植前の骨髄穿刺で「微小残存病変(MRD)陰性」と告げられ喜んだのも束の間、移植に先立って行われた6日間の強化移植前処置から、10月1日の造血幹細胞移植、移植された幹細胞が骨髄で増殖を始める「生着」までの40日間は地獄のような毎日でした。
前処置の副作用、移植片対宿主病(GVHD)、著しい免疫力の低下が激しい下痢や腹痛、頻尿、重度の口内炎、皮膚乾燥などの症状となってどっとあらわれたのです。
ついには口腔内にできた血の塊が剥がれ落ちて激しく吐血し、それが気管と食道の間のヒダに詰まって呼吸困難に陥りました。
激痛のあまり感情の制御がきかなくなって、痛み止めをくれない看護師に声を荒げる失態を演じたりもしました。
通常よりも少し時間がかかりましたが、11月2日、移植した幹細胞の「生着」が確認されました。
すると、白血球が増え始め、つらかった症状も潮が引くように消えていったのです。
12月13日、めでたく退院の運びとなりました。
激烈な胸痛に叩き起こされた悪夢のあの日から、実に12ヵ月という月日が流れていました。

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