患者として人生に向き合う第2回 まさかのCMVの「再燃」

12年12月にフィラデルフィア染色体陽性成人急性リンパ性白血病の告知を受ける直前まで、私はCSO(医薬品販売業務受託機関)「アプシェ」(現ACメディカル)の社長として、動き始めたばかりの1大プロジェクトの陣頭指揮を執っていました。

そのため入院後しばらくは、病室にパソコンや資料を持ち込むなどして、責務を全うしようと必死でした。しかし間もなく、化学療法の副作用は気力までをも奪い始めました。
「これ以上は無理だ。かえって皆に迷惑をかける」

私はようやく「治療に専念する」決断をし、社員に会社の業務をすべて任せようと腹を括りました。
それから1年余り、社員一人ひとりが懸命に会社を切り盛りしてくれたのです。
そして前回記したように、13年11月2日に移植した幹細胞の「生着」が確認され、つらい症状も潮が引くように消えました。
「昌原社長がいなくても大丈夫よ」
「何だと(笑)」

ここまでくると部下と交わす冗談も普段どおりに近付いてきました。ところが、です。治療が一段落して、徐々に仕事に復帰しようと考えていた矢先。そう忘れもしません、暮れも押し迫った12月24日のことでした。

私の信頼していたひとりの部下のしたことが、親会社からとんでもない誤解を生じることになったのです。
「どういうことなんですか!」

その件で親会社の社長と言い合いになりました。
あまりにも理不尽な出来事に怒りを抑えきれません。
後で部下に聞くと「あんな社長の姿を見たことがない」と言われたほど、興奮していたのです。

その最中でした。

「プチッ」

血管が切れるような感覚に続いて、視界が見る見るぼやけていきました。
恐れていたサイトメガロウイルス(CWV)網膜炎が再燃したのです。
いえ、再燃というよりむしろ、血圧の急上昇が弱っていた網膜の血管にダメージを与えたといったほうが正しいのかもしれません。

ようやく社会復帰への一歩を踏みだそうとしたときに、再びCMV網膜炎の治療に通わなければならなくなったのです。

前回の闘病記にも書きましたが、CMV網膜炎の治療薬には骨髄抑制という強烈な副作用のある「デノシン」と、非常にきつい腎毒性のある「ホスカビル」の2つしかありません。
移植した幹細胞の生着が確認されて以降、白血球の値は順調に回復してはいたものの、赤血球のあがりが悪く、血小板に至っては油断するとすぐに下がってしまうため、退院後も週2~3回、輸血を受けるために通院していました。

そのような状況でしたので、デノシンはすぐに使えなくなり、ホスカビルの副作用も回を増すごとに強くなったため3~4ヵ月ほどで全身投与を断念し、国内では未承認の投与法デノシンの「眼内投与」に踏み切りました。

「眼内投与」とは読んで字の如く、眼球に直接薬剤を注入する治療法です。
瞬きができないよう枠をはめられた眼の玉に針が迫ってくる様を想像してみてください。
その怖さといったらありません。
眼底に水が溜まるのを抑えるステロイド注射もしかりです。

米国では承認されているとはいえ、日本では恐らく誰も経験したことがなく、何もかもが手探り状態だったわけです。
そんな眼科の先生方のチャレンジ精神のお陰で、14年5月を迎えるころには、網膜炎の再燃騒ぎも少しずつ沈静化に向かいました。